左利きは、世知辛い 9/23

ちょっとした演奏です。

よければ、聞いて行ってください。

 

 きつねは大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。そして誰に話すでもなく言葉をこぼし始めた。チンパンジーのオリバー先生直伝の人の言葉を。

 

「でも、なんでこの世にはこんなにもいろんな人がいるんだろう。オレは今までに様々な人間に会ってきた。誰一人として同じ顔、色、声、考え方を持ったやつはいなかった。神様はどうして同じ人をつくらないだろうか」

 

 沈黙。足音。思案。

 

「アダムとイヴが愛し合い、二人の間にアダムとイヴが生まれ、その二人の愛からまたアダムとイヴが生まれる。楽園での永久不変の円環的な愛」

 

 トムがそう言うと、きつねは大きく頷いていた。「そうですそうです。ほんとはそれでよかったんじゃないんですか? 二人も幸せで、神様も楽です」

 

 楽園での永久不変の円環的な愛。

 

 僕は心の中でそう繰り返した。苦しみも悲しみもない、安らぎと喜びに満ちた楽園。男女二人が愛し合い、二人の間に生まれる子孫も子孫同士で愛し合う。彼らは、初めは父母を見て見様見真似に手をつなぎ、抱き合う。父母はそれを微笑ましく見守る。子供たちは安穏の中でキスをする。交わり合う。どんなときも父母が近くでしっかりレクチャーする。不安なんて抱えることなく誰かと比べることなんてせず子供たちは着実に成長していく。愛し合う。本心から愛し合う。純度100%の愛を互いに見せ合う。完全な愛を惜しげもなく。「僕には君しかいないんだ」と息子。「私もあなた以外考えられない」と娘。二人は見つめ合い、愛を伝え合う。二人の間にできる息子や娘にもこんな恋をしてもらいたい、愛し合ってもらいたい、と彼らは考えるようになる。そう考えながら交わり合う。真剣に。誠実に。その先で、彼らの愛が新たな命を生む。そしてその命がまた愛し合う。その繰り返し。——それが許される場所こそ楽園。楽園での永久不変の円環的な愛。お気に入りの曲をいくつも入れたカセットテープのような世界。大好きな曲で始まり、大好きな曲で終わる。巻き戻して最初からスタート。まず聞こえるのは、変わらず大好きな曲。何一つ変わらない。完璧。別に悪い気はしない。どうしてだろう。僕は異常者なのだろうか。

 

 「僕には君しかいないんだ」と息子。「私もあなた以外考えられない」と娘。巻き戻す。「僕には君しかいないんだ」と息子。「私もあなた以外考えられない」と娘。また巻き戻す。「私もあなた以外考えられない」と娘。巻き戻す。「私もあなた以外考えられない」。リピート。私もあなた以外考えられない。うん。やっぱり悪くない。

 

 眼下できつねはうんざりしたように「人が増えすぎた現代じゃあ犯罪や不幸が相次いで、神様も大変だ」と言った。「誰がこんな未来を望んだんだろう」とも。隣でトムは「誰だろう」と考え込むように唸った。

 

 僕の頭の中には、どっしりと逞しい太い幹の樹木があった。木には緑が茂り、降り注ぐ木漏れ日がきらきら眩しい。男が光に手を翳しながら見上げるとそこには一匹のヘビ。全身が青黒く、目が切れ長でいかにも悪そうなヘビ。そのヘビは男が愛する女を唆す。「これを食べるといいさ。何もかもスッキリするさ」と果実を女に差し出す。果実はリンゴでもあったし、よく見るとミカンでもあった。角度を変えると、ぶどうにも見えたし、片目を閉じるとナシにも見えた。果実は一秒の間に様々なものに変化していた。サクランボにカボチャ、しいたけにネモフィラ。ときにカモノハシ。ヘビによる無数の可能性の提示。この段階で二人の円環的な愛には亀裂が生じ始める。楽園そのものが揺るぎ始める。食べちゃダメだ、と言いかけた男の首をヘビがすかさず絞める。彼の存在なんて全く気にすることなく女はその果実に手を伸ばす。目を細め、タチの悪い笑みを浮かべたヘビは陽光の中に溶けるようにして消える。女はすぐにそれを齧る。発作のように咳き込み始める。男は慌てて駆け寄る。倒れた彼女を抱きかかえる。彼女は目を閉じたまましばらくぐったりとしている。何を言っても、揺すっても反応はない。「僕には君にしかいないんだ」。彼は何度も眠ったままの彼女に向かって言う。しかし反応はない。いつまで経っても彼女は眠ったまま。その間にも楽園は崩壊に向かう。

 

 男は黙り込む。長く続く沈黙の中で彼の心に不安という感情が誕生する。不安が血管を駆け巡り、全身を蝕む。焦りが誕生し、身体の至るところから汗が分泌される。恐怖が蠢き、身体が小刻みに震える。そのような状況で、天使の微笑みのような朗らかな輝きを纏った希望も誕生する。彼はその希望に導かれ、静かに女に口づけをする。それで女が目覚め、「私もあなた以外考えられない」と言ってくれることを期待する。

 

 キスの後、女は目覚める。ゆっくりと妖艶に瞼を上げる。希望の風に髪は優雅に靡き、唇が横に平たくなる。笑みが男の期待を助長する。そして満を持して彼女が口を開く。

 

「ありがとう。でも、私には他に好きな人がいるの。ごめんなさい」

 

 女は起き上がると申し訳なさそうな表情だけ見せて男のもとから離れていった。スタスタと滑らかな歩調で。木漏れ日の中を通り抜けていく。そんな彼女の背中を見ていた男の心に様々な感情が生まれる。ビッグバンのように何千、何万もの感情が瞬時に生まれる。苦しみ。悲しみ。絶望。傲慢。後悔。羞恥。憤慨。あきらめ。憎悪。劣等感。……。

 

 しかし、それでも僕は君が好きだ。男は泣きながら女の齧りかけの果実を手に取り、齧る。咀嚼しながら「僕には君しかいないんだ」と呟く。涙が垂れ、よだれがだらしなくこぼれる。惨めったらしいことこの上ない。縋るように果実を齧り続ける。もう彼女も誰も助けにやってこないとわかっていても。男は言う。言い続ける。「僕には君しかいないんだ」と。禁断の果実が成る木の下で。

 

 君を待つ。待ち続ける。いつか君がやってきてくれることを期待して。

 

 そのようにして、現代に蔓延る未練がましい男のパイオニアが誕生する。そしてそんな男が、彼を許容できる寛大な心を持つ別の女性と出会い、恋をする。キスをする。交わり子供を生む。しかしもうそこには純粋な愛、完全な愛はない。あっても半分。良くても半分。子供は彼の半分の愛によってこの世に命を与えられる。その子供が不完全な愛を受容しながら成長し、別の女性と恋に落ちる。不完全な愛の下で交わり子供を生む。不完全な子供が生まれる。それが続く。うんざりするほど続く。不完全な愛は不完全な人間を形成し、不完全な愛を子孫に分け与える。不完全の愛を分け与えるときの音は崩壊していく楽園の叫びに似ている。不完全な愛がそこらじゅうを歩くようになり、楽園は苦しみもがく。それでも人は増える。楽園の悲痛な叫びなんて不完全な愛を与えられた子たちには一切聞こえない。だから楽園の崩壊に反比例するかのように人は増える。10から100、1000から10000とネズミ算式に増える。いつしか70億に達する。

 

 そしてその70億の一人として僕が生まれる。アダムの子孫としてここに僕がいる。彼の未練がましさをしっかりと受け継いで。

 

 どうだろう。君はきっとイヴの子孫なんだろうね。「別に好きな人ができたの。ごめんなさい」。君はそう言って僕を捨てたんだ。……そうだろ?

 

 長文、失礼しました。