夢十夜 第一夜について パート1
こんな夢を見た。
このフレーズを聞けば、多くの人が、夏目漱石さんの “夢十夜” を思い浮かべるでしょう。あるいは、そのような言葉を話頭にもってきて話を進める、友人のむさ苦しい顔か。
まあ、今回、私がここに書きたいことは、当然前者。夏目漱石さんの方です。
この “夢十夜” という作品を初めて読んだのは、高校生のときです。ただ、当時は、国語が嫌いだった私は、その授業もろくに聞いていないことは確かです。窓辺の席になれば、頬杖をついて外ばかり眺めていました。眩しいくらいの青空は、私の網膜に焼きつき、ことあるごとに黒板を、青く染めてくれました。廊下側になれば、廊下に漏れる教室ごとの喧騒に周波数を合わせたり、中央の席になれば、机に落書きをしたりしていました。一番前の席になってしまえば、嫌でも顔を黒板に向ける必要がありましたが、 “夢十夜” のときは、生憎、廊下側の席で、私は、二個隣のクラスの美術の授業に周波数を合わせていました。サルバドール・ダリについて語る際の、美術の教師の声は、驚くほど大きかったのです。
とにかく、私がその “夢十夜” を、意識的に読むことになったのは、高校卒業後の、堕落した大学生時代のことでした。しかし、そこで何か得られたか、といえば、特にこれといったものは、得られませんでした。たった数ぺージのために時間を割いて、得られたものといったら、精良な静寂と、些細な語彙とでした。また、このとき、私は、孤独という2字の意味を知りました。
そして、それまた数年後、とあるきっかけで(啓示的なものといっても差し支えないかもしれないが、そういうと大袈裟であるために、そのことはこのカッコの中に納めます)、私は、 “夢十夜” を読み返すことになりました。
そこで、私は様々なことを思い、感じました。今回はそのことについて、ここに記すことができたら、と考えています。
※以下は、あくまでも、私の考察・感想であり、何かしらの根拠に基づくものではないので、あしからず。
こんな夢を見た。
“夢十夜” はその一文から始まります(すべてではないが)。要するに、そこに描かれた世界は、夢の中の世界ということになります。まず、私は、それを第一前提として、第一夜を読み進めていくことになります。これは夢の中の話なのだ、と心中で唱えながら、一文一文噛みしめていきました。
話の内容について(軽く)
第一夜は、二人の登場人物で成り立っており、主人公の自分と、布団に寝た死 寸前の女です。主人公の自分は、横になった女のそばで、心配を露わにしており、女は、自身を迎えに来た“死”に逆らうことなく、
でも、死ぬんですもの、仕方がないわ
と、身をゆだねているようでもある。
自身の死を確実のものとして受け止めている女は、自身が死んだあとのことを、以下のように、主人公の自分に要求する。
「死んだら、埋うめて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片かけを墓標はかじるしに置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢あいに来ますから」
最後に女が、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍そばに坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
と、伝え、ついに死に至る。
それから、主人公は女に言われたように、真珠貝で穴を掘り、彼女をそこに埋めると、その上に墓標として星の破片(かけ)を乗せる。そうして用意が整うと、自分は近くの苔の上に腰をかける。彼女に言われた通りの、百年を待つことにする。
主人公がじっと百年が過ぎるのを待っているところに、女を埋めた場所から百合の花が咲く。主人公は、その純白の花に接吻をする。そして、空を見上げる。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
その一文で、物語は終わる。
私の考察
私は、この第一夜のポイントとして、この一文(以下の一文)を挙げたいと思います。
しまいには、苔こけの生はえた丸い石を眺めて、自分は女に欺だまされたのではなかろうかと思い出した。
この一文は、主人公の自分が、女に言われた通りに、彼女を埋葬し、百年が経つを待っているときのところのものです。このあとに、彼女を埋葬した場所から百合が咲き、物語は幕を閉じます。
私は、この一文が、この物語、そして、この夢の中で、とても重要な役割を担っている。そう考えています。
申し訳ありませんが、大変疲れたので、今回は、ここまで、ということにさせてください。
続きはまた後日、お願いいたします。