左利きは、書きずらい 10/1

9/30の続きです。

 

 その後、私たちはお目当てのジャイアントパンダを見ることができた。初めて生でパンダを見たが、イメージ通りパンダは白と黒だった。よく見ると使い古されたぬいぐるみのように体毛に汚れを認めることができたが、秋の日差しを浴びるパンダの白と黒は生き生きとしていた。笹を食べる姿も容易にイメージすることができたが、実際に見てみると新鮮だった。笹の緑さえも展示物のように思えた。

 

 そこでパンダを見た私は一気に元気を取り戻した。隣にいた真人の着ていたジャケットの裾を引っ張って「あそこの子見てよ。笹の枝をつまようじみたいにしてるわ」と高揚感を共有しようとした。さっきのこともあり少し恐かったが、「ほんとだ、うちの親父でもあそこまでうまくできないよ。いつも指でやってるもの。汚いからやめろって言ってるんだけどね」と笑ってくれた彼の反応は私に安心を与えてくれた。そこにはソファの上で居眠りをしてしまった私に毛布をかけるような些細な優しさがあった。さらには眠る私の頬にそっと口づけするような仄かな愛情を感じることもできた。私の期待は安らかに眠る昼下がりのように無意識のうちに私の中に浸透していっていた。

 

——そして私は窓から入り込んだ夕日の温かさとカラスの声で目を覚ます。寝ている間の彼からの親切と愛に全く気付くことなくよく寝たわ、と伸びをする。そんな私をダイニングテーブルで読書をしていた彼が頬杖をつきながら眺め、本を閉じると「今日は外食にしようか」と提案する。私は寝ぼけ眼を擦りながら賛成する。「でも、その前に」と席から立った彼が私のもとにやってきてキスをする。今度は私は彼からの愛をしっかりと認知し受け止める。彼が私をぎゅっと抱く。彼が何も言わずにキスをして私を抱くときは、彼の方に何か不安や心配事に心が蝕まれているとき。うまく言葉にできないことがあるとき。私はそれを理解している。だから彼の頭を優しく撫でて言う。「大丈夫。何も恐いことなんてないのよ。私が聞くから。なんだって話して。あのときみたいに」と彼の前髪を分けて露わになった額に口づけする。それから彼は震える声で言う。「結婚しよう」。その声は夕日が差し込む部屋の中で幻想的に響く。それから深い霧がかかった未明の湖畔に佇んでいるかのような静けさが訪れる。——

 

 そんな未来があるとも知らずにパンダを見終えた私と真人は一緒に園内をぐるりと歩いた。そして動物園を出ると電車に乗り、池袋で夕食を取ることにした。スペインの国旗が店先で揺れるレストランに入り、パエリアを食べた。お酒も飲んだ。そこでは動物園で話すことができなかったドラマについて話し合った。今やっているものだけではなく、過去に見て面白かったもの、懐かしいと思えるものなどを紹介し合った。そこから派生してバラエティー番組やお笑いに関する話もした。食器が触れ合う音や料理の香ばしい香りが漂う中で交わされる会話は、実にレストランらしい会話だった。

 

 その後、当然(当然であるかは人それぞれであるだろうが)、私たちはラブホテルに入った。私はすぐさまソファに座りテレビをつけた。リモコンでてきとうにチャンネルを回しているとある番組で食事中の会話に出てきたお笑い芸人がネタを披露していた。真人のオススメの芸人だった。私は自身のジャケットを丁寧にハンガーにかけていた真人を呼んだ。芸人の名前を言うと彼はエサを見せられた犬のように一目散で飛んできた。言葉通り跳ねるようにソファに腰掛けた。

 

 ネタを見ながら手を打って爆笑でもするのかな、と思っていたが、思いのほか真人は小さく笑っていた。小さく笑うのを何回も繰り返している感じだった。見ている芸人の芸風が小さなボケをジャブのように繰り出していくというものだったからか、それともまだ私に対して恥のようなものを感じているのか。私はソファに浅く腰掛けた彼の姿勢に後者の感情をより強く感じることができた。結構お酒も入っていたはずなのに、彼は彼を演じていた。

 

 そんな風にお笑い番組を一時間ほど二人で見てから私たちは交互にシャワーを浴びることにした。じゃんけんの結果、真人が先で私が後になった。

 

「ところで、真人さんの話聞かせてもらえるかしら。それともここもそれを話すには相応しい場所じゃない?」

 

 真人の後にシャワーを浴びて昼間の汗や動物園で身にこびりついた獣臭を洗い落とし、再びソファに腰を下ろすと私はテレビを消して訊いた。私のシャワー中、寝ていたのか、彼はあくびを一つして瞳を潤ませた。目尻からこぼれた涙を指先で拭いながら私の方を見ていた。

 

「ごめん、寝てたかも。もしかして今僕に何か話しかけた?」

 

「ええ」

 

「ごめん。聞けてなかった。なんて言ったの?」

 

「……あなたはいじめられていた。しかも酷く」

 

「ああ、その話か」

 

 真人は苦笑しながら頭を掻いた。そこまで知りたい? と彼は訊いてきた。私は頷いた。それに対して彼は今度はどうして? とは訊いてこなかった。彼は短時間で学習していた。おかげでそんなことレディーに言わせないでよ、というセリフを言う手間が省けた。

 

 真人は一度深呼吸をし、話し出そうとしたところを私は止めた。「ごめんなさい。ここじゃなくて、あっちで話してもらえるかしら」と私は彼をベッドへ促した。彼は快く受け入れてくれた。そして私たちはベッドに並んで腰掛けた。ベッドからは清潔で新しい匂いがふんわりと香ってきた。

 

「どう話せばいいんだろう」

 

「別にどう話してくれたって構わないわ。同級生の好きだった子の体操服を盗んだことが周りにばれたからいじめられるようになりました。って話始めて、その経緯を順を追って話してくれてもいいし。数々のいじめの内容について始めてもいいし。それはあなたの自由。だってここにはあなたと私しかいないもの。少なくとも私はあなたの話に変に口出しはしないわ。一つの文が長すぎるとか、てにをはがおかしいとか、その話はさっきの話の前に持ってきた方が全体を通してわかりやすかったかもね、とか。私は言わないわ。私には私のやり方があるし、あなたにもあなたのやり方がある。でしょ?」

 

 ごめんなさい、話過ぎたわ、と私は真人にバトンを渡すように小さく頭を下げた。彼はありがとう、と言いそれを受け取ると好きな子の体操服を盗んだことがある、と話し出した。

 

「それ、本気で言ってる?」

 

「いや、冗談さ」

 

 ちょっとやめてよ、と私は真人の肩を軽く叩いた。バスローブ越しだったが、初めて触れた彼の肩は想像よりしっかりしていた。肩を小刻みに震わせながら笑う彼はごめんごめん、と謝り、そして「これが僕のやり方さ」と言った。

 

 真人がいじめられるようになったのは小学四年生の夏休み明け直後だった。

 

「うちの小学校では夏休み前に毎年運動会が行われていたんだ。そこでは学年別でクラス対抗リレーがあった。運動会と言えばこれって感じだよね。練習のときからクラスのほとんどが盛り上がっていたよ。一致団結って感じだった。でも、運動がまるっきりダメだった僕にとってそれは地獄さ。練習のときから、なんとかバトンを次に渡そう。それだけを考えていた。僕の役目はバトンを受け取り50m先の子に渡す、それだけだって言い聞かせていた。バトンさえつながれば優勝を狙える。僕のクラスはそれくらい足の速い子が揃っていたんだ」

 

 そこまで話して真人は黙り込んだ。その間に私は話の先を推測してしまった。わかりやすい推理小説を読んでいる気分で。そんな私の脳内に浮かんだ情景は、——よく晴れた空とスピーカーから流れるカバレフスキーの道化師のギャロップ。ひしめく人々と声援飛び交う運動場。砂を舞い上げて走る少年少女。そして問題の場面。真人の手からこぼれ、地面を跳ねるバトン。高性能の技術を搭載したカメラのように私はその状況を恐ろしいほど鮮明に、スローモーションにイメージすることができた。

 

「本番当日、あなたはバトンのパスミスをした」

 

 私がそう言うと真人は顔を上げてこちらを見てきた。そして首を横に振った。

「いいや。パスミスはしていない。むしろいいパスをした。練習よりいいものができた。僕は今でもそう思える」

 

 私は驚きのあまり大きく目を見開いた。「あら、そうなの」と茫然として言った。

「でも、僕のクラスは3位だった。7クラス中ね」

 

 そして学校は夏休みに入り、新学期に僕はいじめられるようになった。そこまで言って真人は再び項垂れた。

 

 リレーの結果と真人のいじめにどのような因果あるのか。私は理解できていなかった。それともそもそもその二つに関連なんてないのかもしれない。そんな疑念さえ浮かんでいた。これが真人のやり方。そう思いながら私は口を閉じている彼を見ていた。

 

 横から見ると真人の鼻の高さや耳の小ささが普段より強調されているように見えた。よく見るとまつ毛が長く、ゆったりとした瞬き一回一回が海上を飛ぶカモメの羽ばたきのように優雅だった。

 

 数回の瞬きの後、藪の中を何かが通り過ぎていくように長いまつ毛の先で真人の瞳が動いた。そして彼がきっちりまぶたを上げると顔をこちらに向けて私を見た。これから謎を解く名探偵のような表情を浮かべて。

 

「僕は運動会直前に、季節外れのインフルエンザに罹った。一週間自宅待機を余儀なくされた。でも運よく——僕にとってそれがよいことだったのか、厳密にいうとわからないが——運動会当日には間に合った。しかも丁度だった。ゆっくり休んでいたため体調はすこぶるよかった。個人種目の徒競走では初めて3等賞を取ったんだから。

 

 しかしその喜びの裏には大きな問題が沈み込んでいた。僕はすぐにはそれに気づくことができなかった。一週間家でどのクラスメイトとも顔を合わせていなかったから。さらには復帰が運動会当日だったということも原因の一つだろう。おかげで私はクラスの変化に疎かったんだ。クラスの駆けっこナンバーワンとスリーとフォーがいなかったんだ。インフルエンザさ。僕のが感染したんだ。そしてその日も彼らは自宅待機を余儀なくされていた」

 

 そこまで聞いて私は納得した。真人がどれだけいい走りとしたとしても彼のクラスが3位に終わった理由を。そして彼が夏休み明けにいじめられることになった原因を。

 

「ここまで話せばわかるよね。晴菜ちゃん、そんな顔してるもの」

 

「そうかしら」

 

「ああ、そうさ」

 

「で、あなたはその後どうなったの?」

 

 真人は困ったように笑った。そうだよね、気になるよな。と頭を掻いた。鼻から息を大きく吸って吐いた。そして彼が話し出そうとしたところを私は再び止めた。起動したテレビゲームを、コンセントを抜いて電源を落とすように。「ごめんなさい、電気消していいかしら」。そう訊ねると突然のことに彼は戸惑っていた。少し遅れてきた承諾の返事を聞いて私はベッドの枕側にあるつまみをいじって部屋を暗くした。それからサイドテーブルに置いてあったランプをつけた。それは多くの人が寝静まった夜の中にぽつんと輝く田舎のコンビニのような安心感を私に与えた。

 

 電気を消しランプをつける際、私はベッドに膝をついて四つん這いの状態になった。身体に密着していたバスローブが重力に従い弛み、ブラジャーを外した胸に直に空気が入り込んできた。独特な雰囲気を漂わせたひんやりと乾いた空気が胸を撫で乳首を強張らせた。頬がぽうっと熱くなり、鼻の孔を出入りする息の温度差をはっきりと感じることができた。私の身体はこの異様なうすら寒さに皮膚を収縮させながらも、芯はしっかりと熱を帯びていた。

 

 この状況をすぐそこで真人に見られていると思うと尚更身体が緊張した。私は姿勢を正す前に首を捻じって彼の方を見てみた。金縛りにあった夜みたいに身体は四つん這いのまま動かさずに。

 

 そんな私は少なからず期待していた。真人がこちらを見ていることに。そして底知れない性欲に目をぎらつかせていることに。芯の温かさとは裏腹に身体を小刻みに震わせていることに。しかし彼は私のことなんてこれっぽっちも見ていなかった。さっきまでと同じく、ベッドに腰掛けたまま考え込むように項垂れていた。私はがっかりした。

 

——きっとこのとき私が望んでいたように、不意に後ろからあなたに抱き着かれていたとしたら、私はあなたからのプロポーズを断らず快く受け入れていたかもしれない。理由はうまく言葉にできないけれど、そんな気がする。別にそうしてくれなかったあなたに、それから数年付き合うことになったあなたとの時間に不満をもっていたわけではない。ただ、その瞬間が私があなたと一生と共にしないと判断した一つの要因として私の中にあり続けていたの。どこの学校にもある二宮金次郎の石像のように。意識しない限り気づくことのない景色に溶け込んだそんな石像のように。——