夢十夜 第一夜について パート1

 

こんな夢を見た。

夏目漱石文鳥夢十夜』(夢十夜) ,新潮文庫,30p

 

 

このフレーズを聞けば、多くの人が、夏目漱石さんの “夢十夜” を思い浮かべるでしょう。あるいは、そのような言葉を話頭にもってきて話を進める、友人のむさ苦しい顔か。

 

まあ、今回、私がここに書きたいことは、当然前者。夏目漱石さんの方です。

 

この “夢十夜” という作品を初めて読んだのは、高校生のときです。ただ、当時は、国語が嫌いだった私は、その授業もろくに聞いていないことは確かです。窓辺の席になれば、頬杖をついて外ばかり眺めていました。眩しいくらいの青空は、私の網膜に焼きつき、ことあるごとに黒板を、青く染めてくれました。廊下側になれば、廊下に漏れる教室ごとの喧騒に周波数を合わせたり、中央の席になれば、机に落書きをしたりしていました。一番前の席になってしまえば、嫌でも顔を黒板に向ける必要がありましたが、 “夢十夜” のときは、生憎、廊下側の席で、私は、二個隣のクラスの美術の授業に周波数を合わせていました。サルバドール・ダリについて語る際の、美術の教師の声は、驚くほど大きかったのです。

 

とにかく、私がその “夢十夜” を、意識的に読むことになったのは、高校卒業後の、堕落した大学生時代のことでした。しかし、そこで何か得られたか、といえば、特にこれといったものは、得られませんでした。たった数ぺージのために時間を割いて、得られたものといったら、精良な静寂と、些細な語彙とでした。また、このとき、私は、孤独という2字の意味を知りました。

 

そして、それまた数年後、とあるきっかけで(啓示的なものといっても差し支えないかもしれないが、そういうと大袈裟であるために、そのことはこのカッコの中に納めます)、私は、 “夢十夜” を読み返すことになりました。

 

そこで、私は様々なことを思い、感じました。今回はそのことについて、ここに記すことができたら、と考えています。

※以下は、あくまでも、私の考察・感想であり、何かしらの根拠に基づくものではないので、あしからず。

 

こんな夢を見た。

夏目漱石文鳥夢十夜』(夢十夜) ,新潮文庫,30p

 

 “夢十夜” はその一文から始まります(すべてではないが)。要するに、そこに描かれた世界は、夢の中の世界ということになります。まず、私は、それを第一前提として、第一夜を読み進めていくことになります。これは夢の中の話なのだ、と心中で唱えながら、一文一文噛みしめていきました。

 

話の内容について(軽く)

 

第一夜は、二人の登場人物で成り立っており、主人公の自分と、布団に寝た死 寸前の女です。主人公の自分は、横になった女のそばで、心配を露わにしており、女は、自身を迎えに来た“死”に逆らうことなく、

 

でも、死ぬんですもの、仕方がないわ

夏目漱石文鳥夢十夜』(夢十夜) ,新潮文庫,31p

 

と、身をゆだねているようでもある。

 

自身の死を確実のものとして受け止めている女は、自身が死んだあとのことを、以下のように、主人公の自分に要求する。

 

「死んだら、埋うめて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片かけを墓標はかじるしに置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢あいに来ますから」

夏目漱石文鳥夢十夜』(夢十夜) ,新潮文庫,31p

 

最後に女が、

 

「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍そばに坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」

夏目漱石文鳥夢十夜』(夢十夜) ,新潮文庫,31p

 

と、伝え、ついに死に至る。

 

それから、主人公は女に言われたように、真珠貝で穴を掘り、彼女をそこに埋めると、その上に墓標として星の破片(かけ)を乗せる。そうして用意が整うと、自分は近くの苔の上に腰をかける。彼女に言われた通りの、百年を待つことにする。

 

主人公がじっと百年が過ぎるのを待っているところに、女を埋めた場所から百合の花が咲く。主人公は、その純白の花に接吻をする。そして、空を見上げる。

 

「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。

夏目漱石文鳥夢十夜』(夢十夜) ,新潮文庫,33p

 

その一文で、物語は終わる。

 

私の考察

私は、この第一夜のポイントとして、この一文(以下の一文)を挙げたいと思います。

 

しまいには、苔こけの生はえた丸い石を眺めて、自分は女に欺だまされたのではなかろうかと思い出した。

夏目漱石文鳥夢十夜』(夢十夜) ,新潮文庫,33p

 

この一文は、主人公の自分が、女に言われた通りに、彼女を埋葬し、百年が経つを待っているときのところのものです。このあとに、彼女を埋葬した場所から百合が咲き、物語は幕を閉じます。

 

私は、この一文が、この物語、そして、この夢の中で、とても重要な役割を担っている。そう考えています。

 

申し訳ありませんが、大変疲れたので、今回は、ここまで、ということにさせてください。

続きはまた後日、お願いいたします。

 

左利きは、書きずらい 10/1

9/30の続きです。

 

 その後、私たちはお目当てのジャイアントパンダを見ることができた。初めて生でパンダを見たが、イメージ通りパンダは白と黒だった。よく見ると使い古されたぬいぐるみのように体毛に汚れを認めることができたが、秋の日差しを浴びるパンダの白と黒は生き生きとしていた。笹を食べる姿も容易にイメージすることができたが、実際に見てみると新鮮だった。笹の緑さえも展示物のように思えた。

 

 そこでパンダを見た私は一気に元気を取り戻した。隣にいた真人の着ていたジャケットの裾を引っ張って「あそこの子見てよ。笹の枝をつまようじみたいにしてるわ」と高揚感を共有しようとした。さっきのこともあり少し恐かったが、「ほんとだ、うちの親父でもあそこまでうまくできないよ。いつも指でやってるもの。汚いからやめろって言ってるんだけどね」と笑ってくれた彼の反応は私に安心を与えてくれた。そこにはソファの上で居眠りをしてしまった私に毛布をかけるような些細な優しさがあった。さらには眠る私の頬にそっと口づけするような仄かな愛情を感じることもできた。私の期待は安らかに眠る昼下がりのように無意識のうちに私の中に浸透していっていた。

 

——そして私は窓から入り込んだ夕日の温かさとカラスの声で目を覚ます。寝ている間の彼からの親切と愛に全く気付くことなくよく寝たわ、と伸びをする。そんな私をダイニングテーブルで読書をしていた彼が頬杖をつきながら眺め、本を閉じると「今日は外食にしようか」と提案する。私は寝ぼけ眼を擦りながら賛成する。「でも、その前に」と席から立った彼が私のもとにやってきてキスをする。今度は私は彼からの愛をしっかりと認知し受け止める。彼が私をぎゅっと抱く。彼が何も言わずにキスをして私を抱くときは、彼の方に何か不安や心配事に心が蝕まれているとき。うまく言葉にできないことがあるとき。私はそれを理解している。だから彼の頭を優しく撫でて言う。「大丈夫。何も恐いことなんてないのよ。私が聞くから。なんだって話して。あのときみたいに」と彼の前髪を分けて露わになった額に口づけする。それから彼は震える声で言う。「結婚しよう」。その声は夕日が差し込む部屋の中で幻想的に響く。それから深い霧がかかった未明の湖畔に佇んでいるかのような静けさが訪れる。——

 

 そんな未来があるとも知らずにパンダを見終えた私と真人は一緒に園内をぐるりと歩いた。そして動物園を出ると電車に乗り、池袋で夕食を取ることにした。スペインの国旗が店先で揺れるレストランに入り、パエリアを食べた。お酒も飲んだ。そこでは動物園で話すことができなかったドラマについて話し合った。今やっているものだけではなく、過去に見て面白かったもの、懐かしいと思えるものなどを紹介し合った。そこから派生してバラエティー番組やお笑いに関する話もした。食器が触れ合う音や料理の香ばしい香りが漂う中で交わされる会話は、実にレストランらしい会話だった。

 

 その後、当然(当然であるかは人それぞれであるだろうが)、私たちはラブホテルに入った。私はすぐさまソファに座りテレビをつけた。リモコンでてきとうにチャンネルを回しているとある番組で食事中の会話に出てきたお笑い芸人がネタを披露していた。真人のオススメの芸人だった。私は自身のジャケットを丁寧にハンガーにかけていた真人を呼んだ。芸人の名前を言うと彼はエサを見せられた犬のように一目散で飛んできた。言葉通り跳ねるようにソファに腰掛けた。

 

 ネタを見ながら手を打って爆笑でもするのかな、と思っていたが、思いのほか真人は小さく笑っていた。小さく笑うのを何回も繰り返している感じだった。見ている芸人の芸風が小さなボケをジャブのように繰り出していくというものだったからか、それともまだ私に対して恥のようなものを感じているのか。私はソファに浅く腰掛けた彼の姿勢に後者の感情をより強く感じることができた。結構お酒も入っていたはずなのに、彼は彼を演じていた。

 

 そんな風にお笑い番組を一時間ほど二人で見てから私たちは交互にシャワーを浴びることにした。じゃんけんの結果、真人が先で私が後になった。

 

「ところで、真人さんの話聞かせてもらえるかしら。それともここもそれを話すには相応しい場所じゃない?」

 

 真人の後にシャワーを浴びて昼間の汗や動物園で身にこびりついた獣臭を洗い落とし、再びソファに腰を下ろすと私はテレビを消して訊いた。私のシャワー中、寝ていたのか、彼はあくびを一つして瞳を潤ませた。目尻からこぼれた涙を指先で拭いながら私の方を見ていた。

 

「ごめん、寝てたかも。もしかして今僕に何か話しかけた?」

 

「ええ」

 

「ごめん。聞けてなかった。なんて言ったの?」

 

「……あなたはいじめられていた。しかも酷く」

 

「ああ、その話か」

 

 真人は苦笑しながら頭を掻いた。そこまで知りたい? と彼は訊いてきた。私は頷いた。それに対して彼は今度はどうして? とは訊いてこなかった。彼は短時間で学習していた。おかげでそんなことレディーに言わせないでよ、というセリフを言う手間が省けた。

 

 真人は一度深呼吸をし、話し出そうとしたところを私は止めた。「ごめんなさい。ここじゃなくて、あっちで話してもらえるかしら」と私は彼をベッドへ促した。彼は快く受け入れてくれた。そして私たちはベッドに並んで腰掛けた。ベッドからは清潔で新しい匂いがふんわりと香ってきた。

 

「どう話せばいいんだろう」

 

「別にどう話してくれたって構わないわ。同級生の好きだった子の体操服を盗んだことが周りにばれたからいじめられるようになりました。って話始めて、その経緯を順を追って話してくれてもいいし。数々のいじめの内容について始めてもいいし。それはあなたの自由。だってここにはあなたと私しかいないもの。少なくとも私はあなたの話に変に口出しはしないわ。一つの文が長すぎるとか、てにをはがおかしいとか、その話はさっきの話の前に持ってきた方が全体を通してわかりやすかったかもね、とか。私は言わないわ。私には私のやり方があるし、あなたにもあなたのやり方がある。でしょ?」

 

 ごめんなさい、話過ぎたわ、と私は真人にバトンを渡すように小さく頭を下げた。彼はありがとう、と言いそれを受け取ると好きな子の体操服を盗んだことがある、と話し出した。

 

「それ、本気で言ってる?」

 

「いや、冗談さ」

 

 ちょっとやめてよ、と私は真人の肩を軽く叩いた。バスローブ越しだったが、初めて触れた彼の肩は想像よりしっかりしていた。肩を小刻みに震わせながら笑う彼はごめんごめん、と謝り、そして「これが僕のやり方さ」と言った。

 

 真人がいじめられるようになったのは小学四年生の夏休み明け直後だった。

 

「うちの小学校では夏休み前に毎年運動会が行われていたんだ。そこでは学年別でクラス対抗リレーがあった。運動会と言えばこれって感じだよね。練習のときからクラスのほとんどが盛り上がっていたよ。一致団結って感じだった。でも、運動がまるっきりダメだった僕にとってそれは地獄さ。練習のときから、なんとかバトンを次に渡そう。それだけを考えていた。僕の役目はバトンを受け取り50m先の子に渡す、それだけだって言い聞かせていた。バトンさえつながれば優勝を狙える。僕のクラスはそれくらい足の速い子が揃っていたんだ」

 

 そこまで話して真人は黙り込んだ。その間に私は話の先を推測してしまった。わかりやすい推理小説を読んでいる気分で。そんな私の脳内に浮かんだ情景は、——よく晴れた空とスピーカーから流れるカバレフスキーの道化師のギャロップ。ひしめく人々と声援飛び交う運動場。砂を舞い上げて走る少年少女。そして問題の場面。真人の手からこぼれ、地面を跳ねるバトン。高性能の技術を搭載したカメラのように私はその状況を恐ろしいほど鮮明に、スローモーションにイメージすることができた。

 

「本番当日、あなたはバトンのパスミスをした」

 

 私がそう言うと真人は顔を上げてこちらを見てきた。そして首を横に振った。

「いいや。パスミスはしていない。むしろいいパスをした。練習よりいいものができた。僕は今でもそう思える」

 

 私は驚きのあまり大きく目を見開いた。「あら、そうなの」と茫然として言った。

「でも、僕のクラスは3位だった。7クラス中ね」

 

 そして学校は夏休みに入り、新学期に僕はいじめられるようになった。そこまで言って真人は再び項垂れた。

 

 リレーの結果と真人のいじめにどのような因果あるのか。私は理解できていなかった。それともそもそもその二つに関連なんてないのかもしれない。そんな疑念さえ浮かんでいた。これが真人のやり方。そう思いながら私は口を閉じている彼を見ていた。

 

 横から見ると真人の鼻の高さや耳の小ささが普段より強調されているように見えた。よく見るとまつ毛が長く、ゆったりとした瞬き一回一回が海上を飛ぶカモメの羽ばたきのように優雅だった。

 

 数回の瞬きの後、藪の中を何かが通り過ぎていくように長いまつ毛の先で真人の瞳が動いた。そして彼がきっちりまぶたを上げると顔をこちらに向けて私を見た。これから謎を解く名探偵のような表情を浮かべて。

 

「僕は運動会直前に、季節外れのインフルエンザに罹った。一週間自宅待機を余儀なくされた。でも運よく——僕にとってそれがよいことだったのか、厳密にいうとわからないが——運動会当日には間に合った。しかも丁度だった。ゆっくり休んでいたため体調はすこぶるよかった。個人種目の徒競走では初めて3等賞を取ったんだから。

 

 しかしその喜びの裏には大きな問題が沈み込んでいた。僕はすぐにはそれに気づくことができなかった。一週間家でどのクラスメイトとも顔を合わせていなかったから。さらには復帰が運動会当日だったということも原因の一つだろう。おかげで私はクラスの変化に疎かったんだ。クラスの駆けっこナンバーワンとスリーとフォーがいなかったんだ。インフルエンザさ。僕のが感染したんだ。そしてその日も彼らは自宅待機を余儀なくされていた」

 

 そこまで聞いて私は納得した。真人がどれだけいい走りとしたとしても彼のクラスが3位に終わった理由を。そして彼が夏休み明けにいじめられることになった原因を。

 

「ここまで話せばわかるよね。晴菜ちゃん、そんな顔してるもの」

 

「そうかしら」

 

「ああ、そうさ」

 

「で、あなたはその後どうなったの?」

 

 真人は困ったように笑った。そうだよね、気になるよな。と頭を掻いた。鼻から息を大きく吸って吐いた。そして彼が話し出そうとしたところを私は再び止めた。起動したテレビゲームを、コンセントを抜いて電源を落とすように。「ごめんなさい、電気消していいかしら」。そう訊ねると突然のことに彼は戸惑っていた。少し遅れてきた承諾の返事を聞いて私はベッドの枕側にあるつまみをいじって部屋を暗くした。それからサイドテーブルに置いてあったランプをつけた。それは多くの人が寝静まった夜の中にぽつんと輝く田舎のコンビニのような安心感を私に与えた。

 

 電気を消しランプをつける際、私はベッドに膝をついて四つん這いの状態になった。身体に密着していたバスローブが重力に従い弛み、ブラジャーを外した胸に直に空気が入り込んできた。独特な雰囲気を漂わせたひんやりと乾いた空気が胸を撫で乳首を強張らせた。頬がぽうっと熱くなり、鼻の孔を出入りする息の温度差をはっきりと感じることができた。私の身体はこの異様なうすら寒さに皮膚を収縮させながらも、芯はしっかりと熱を帯びていた。

 

 この状況をすぐそこで真人に見られていると思うと尚更身体が緊張した。私は姿勢を正す前に首を捻じって彼の方を見てみた。金縛りにあった夜みたいに身体は四つん這いのまま動かさずに。

 

 そんな私は少なからず期待していた。真人がこちらを見ていることに。そして底知れない性欲に目をぎらつかせていることに。芯の温かさとは裏腹に身体を小刻みに震わせていることに。しかし彼は私のことなんてこれっぽっちも見ていなかった。さっきまでと同じく、ベッドに腰掛けたまま考え込むように項垂れていた。私はがっかりした。

 

——きっとこのとき私が望んでいたように、不意に後ろからあなたに抱き着かれていたとしたら、私はあなたからのプロポーズを断らず快く受け入れていたかもしれない。理由はうまく言葉にできないけれど、そんな気がする。別にそうしてくれなかったあなたに、それから数年付き合うことになったあなたとの時間に不満をもっていたわけではない。ただ、その瞬間が私があなたと一生と共にしないと判断した一つの要因として私の中にあり続けていたの。どこの学校にもある二宮金次郎の石像のように。意識しない限り気づくことのない景色に溶け込んだそんな石像のように。——

左利きは、書きずらい 9/30

私は、ピアノの前に腰掛け、目を閉じ、沈黙に耳を傾ける。部屋の片隅に小さな穴が開くイメージをする。そこには、私が住む世界とはまた違う、別の世界の景色がある。この世界と同じような時間の流れがあり、この世界と同じようなポップスが至るところで聞こえる。東京タワーもあるし、満月もある。しかし、それらは、完全にこちらの世界のものと同じというわけではない。そして、もちろん、そこには私としてではない、私がいる。私は、その私を、その穴の中からじっと観察する。その私に気づかれないようにそっと。

 

これが最近の、このピアノの、演奏方法。少し複雑で、とても想像的。また、それは少し窮屈で、とても無意義的。有意義にするには、やはり音が必要不可欠。このピアノじゃあ、それは難しい。

 

それでは、演奏スタート。

 

「結婚しよう」

 

 私がまだ鮮明に顔を覚えている男性から言われた言葉だった。一番最後に付き合った男性だったため、当然だろう。彼は山口真人。都内でフリーランスのエンジニアをしていた。私は機械のことや横文字が苦手だったため、彼から仕事の話を訊くことは進んでしなかった。しかし彼から自慢のように仕事の話が出てくるときはなんとか笑って誤魔化していた。友達に誘われた合コンで初めて会ったときもそうだった。彼はハイボールの入ったジョッキを揺らしながら言った。

 

「この前も会社のウェブサイトを作ってほしいっていうお客さんがきて僕はこうしたほうがいいと説明したんだけど、お客さんの方が納得してくれなくて、しつこいなって嫌な顔されたんだ。だから僕は表面上ではお客さんの要望をしっかりと汲み取った。そしてその裏で僕は僕がいいと思うやつとお客さんの要望通りの二つを作ったんだ。頼まれたこと以上のことをしたってわけ。それで完成後、その二つを見せたら、結局僕がいいと思っていた方が採用されてね。初めから君の考えに従うべきだったって、お客さんも驚いてたよ。僕も驚いたけど」

 

 真人がその話に対して私たちに何を求めていたのかわからなかったが、私と隣にいた友人は一度アイコンタクトを取ってから、大変ねえとか、すごいじゃない、と言って笑って見せた。そうすると彼も嬉しそうに笑った。話はあんまりだったが、くしゃっと笑うその顔は私に好感を与えた。またハイボールを飲む際、満足そうな表情を一度フラットにするその一瞬に私は内に隠しているであろう彼の本当の感情を覗きたくなった。簡潔に言えば、私は彼に興味を持った。仕事の話は恐ろしくつまらないが、そのおかげで私は彼を、彼自身を知りたくなった。だから私は彼と連絡先を交換することにした。何回か連絡を重ね、デートをした。

 

 二回目のデートで上野動物園に二人で行った。土曜日だったということと秋晴れの心地よい昼下がりだったため、上野駅から人が多く混雑していた。私は人が多いところが得意ではなく、エントランスで犇くたくさんの黒い頭を見ていたら気分が少し悪くなった。しゃがみ込んだり、倒れこんだりするほどではなかったが、確実に口数は減っていた。表情も暗かったに違いなかった。

 

 そんな私に気を遣ったのか、園内に入ってすぐに真人がせっかくだからパンダを見たいとくしゃっと笑って言った。しかしその後に顔を歪めて「でも、結構並ぶかも」とパンダを見るためにできた行列を見つけて言った。私はあまり園内を歩き回りたい気分ではなかったため、行列に並ぶことを拒むことはしなかった。むしろ並びたいとも思った。それで少し休憩できれば、と私は彼とパンダを見るための行列に並んだ。

 

 そこでも真人は仕事の話をしようとした。私は頭を抱えて苦しそうに唸り、彼の口を制した。無論彼は心配そうに「晴菜ちゃん、大丈夫?」と膝に手を置いて顔を覗いてきた。私は横に小さく首を振った。

 

「この際だから正直に言うわ。私、機械とか横文字とか得意じゃないのね、だからあなたの仕事の話聞くのあんまり好きじゃないの」

 

「おお、……正直に言うね」

 

 真人は苦笑いだった。それからひとこと「ごめんね」と謝罪があり、じゃあどうしようかな、と彼は頭を掻きながら話を探し始めた。しかし彼はなかなか口を開かなかった。話が見つからないのか、正直にものを言った私に対して気まずさを覚えているのか、真相は謎だったが、おかげで私たちの間には沈黙が起こった。

 

 私たちが口を閉ざしても周りには多くのお客さんがいた。園内を歩くお客さんには子連れが多かった。売店のライオンのぬいぐるみをねだる子供の声、ベビーカーの車輪が転がる音、我が子の名前を呼び窘める母の声などが入り乱れた喧騒中から突発的に飛び出してきてはすぐに喧騒の中に溶けていった。私は飛び出してきた音の方を一瞥しては隣の真人の顔を見た。口をへの字に曲げた彼は未だなお思案中のようだった。

 

 私たちのすぐ後ろには50代あたりの夫婦が並んでいた。二人とも動きやすそうなマウンテンパーカーを羽織り、シャカシャカのズボンを履いていた。奥さんは薄茶色のキャップをかぶっていた。旦那さんは黒縁の眼鏡をかけていた。昨晩の夕食について話している二人の会話はほのぼのとしており、今日の天気にぴったりだった。

 

 目の前には20代くらいの若い男女がいた。茶髪の彼は全身を黒い服で包んでいた。髪の長い彼女は短いスカートを履いていた。つながれた手は小さく前後に揺れていた。その揺れと、時折見せ合う微笑みとが現在の二人の幸せを物語っていた。

 

 私は無意識に隣に立つ真人との距離を測っていた。手の届く距離にいるのにとても遠くにいるような感じ。私たちの間に澱む沈黙がよりその感覚を顕著にさせた。でも、なんだかそれもそれで悪い気はしなかった。まさにまだ関係の浅い腹の探り合いのデートのようで。また恋の始まりを予感させるようで。この感じはあとになってから味わうことはできない。付き合ってからでは、手をギュッとつなぎ始めてからでは決して感じることはできない。だから今のうちにしっかり味わっておかなくちゃ、と私は思った。

 

 列が少しずつ前に進む中、目の前のカップルが今話題のドラマの話をし始めた。真人はそれを耳にするとしめた、という表情を浮かべ私の方を見た。そして急に吹いた突風に目を細めた。足元を枯葉がザーッと滑っていった。周りには被っていた帽子を飛ばす者もいた。それでも風が止むと彼は再び希望に満ちた表情を見せた。風で乾燥した瞳には潤いが滲み、陽光に煌めいていた。おかげで私に対してときめいているようにも見えた。

 

「晴菜ちゃん、そよ風に歌う恋っていうドラマ見てる?」

 

「見てないって言ったら?」

 

「え、……どうしよう、かな」

 

 真人は私から視線を逸らすと空を見上げ、再び頭を掻いた。そんな彼に私はため息をこぼした。うんざりという気持ちもないわけではなかったが、そこには未来に対する期待もあった。彼は私のことをしっかり考えてくれている。さっきまでの沈黙の中でそうはっきり感じ取ることができていたのだ。

 

「まあ、嘘よ。見てるわ。ちゃんと毎週録画してる」

 

「ちょっと、どうしてそんな意地悪するのさ」

 

 真人はおどけるようにして言った。彼は恥ずかしそうにして風で乱れていた自身の前髪をいじっていた。私はふふふと笑っていた。しかしすぐに真面目な表情に戻すと彼のはにかみもゆっくりと苦笑に変化していっているように見えた。それは太陽が傾き、足から伸びる影が徐々に長くなるように些細なことでありながらも、視点を変え、そこに決して戻ることのない時間の経過を想うと重大なこととしても捉えることができた。私はタイミングを誤らないように気をつけた。一度タイミングを間違えたら命取り。躊躇はしていられない。

 

「私、あなたのことを知りたい」

 

 真人は私の言葉を一つ一つ咀嚼し、飲み込むようにして理解していった。その証拠として彼の口から次の言葉が出るまでに二十秒近くかかった。

 

「僕のこと?」

 

 不安そうに首を傾げる真人に私は頷いた。顎を引いて上目遣いで、恥ずかしそうに。そんなことレディーに言わせないでよ、と言わんばかりに。

 

そんな私を見ながら真人は困った表情をした。眉根を寄せて次のセリフを考えているようだった。私は彼に考えるひまを与えてはならない、と思っていた。彼の中で私のために校正されたセリフではなく、彼本来の言葉で彼自身のことを伝えてほしいと考えていた。だからなおさら意地悪をした。

 

「ねえ、話してちょうだい」

 

 脇腹を小突くようにして催促すると真人は参ったな、と今度は襟足をいじり出した。そして少し間を置いてから「僕は僕の何について話せばいいの?」と訊いてきた。私はひとこと「これまでよ」と返した。彼はまたそれをしっかり噛むようにして聞き入れた。彼はこれまでがどこからどこまでのことを示しているのか、深く考え込んでいるようだった。

 

「でも、僕のこれまで? のことを話して一体何になるんだい?」

 

「あなたの口から出る機械や横文字の話を聴くよりよっぽど有意義な時間を過ごせる」

 

「随分なことを言うじゃないか。耳が痛いよ」

 

 真人は苦笑いだった。

 

「ごめんね。でもね、現在も重要だけど、これまでのことも大切なのよ。これまであなたが体験してきた過去たちはあなたの中で養分となって今のあなたを形作っているんだから。わかる?」

 

「ああ、うん。なんとなくはわかるよ。過去があるから今がある」

 

 でも、と真人はまたすぐに何かを否定しにかかった。私はそれをなんとかして抑えようと努めた。「真人さんはどんな小学生だったの?」。そう訊くと彼はでも、に続く言葉を飲みこみ、一度鼻で深く呼吸をした。肩が上がって下がった。まさにうんざりしているようだった。そこに未来への期待はどのくらい含まれているのだろうか、と私は彼の吐いた息の含有物について想像した。

 

「どうしてそんなに僕のことを知りたいのさ」

 

「……そんなことレディーに言わせるつもりなの?」

 

 今度はそう口にしてみた。すると真人は再び鼻から大きく息を吸い、吐いた。吹く風に前髪を揺らし、それから三回瞬きをした。それが決心の合図だったらしく、彼は口を開いた。

 

「小学生の頃、僕はいじめられていた。それもとても酷く」

 

 そう話始めるとすぐ横を三人の子供がはしゃぎながら駆けて行った。男の子二人に女の子一人。すぐあとをそれぞれの保護者が小走りで通り過ぎていった。「ちょっとはぐれちゃうでしょう!」とその言葉は叱っているようでもあったが、保護者の間には開放的な笑みが交わされていた。私たちの視線はそれに強く引っ張られた。小さくなって人ごみに消えていく親子の背中をしばらく漫然と眺めていた。後ろに並んでいた夫婦もそれを目で追っており、懐かしそうに自分たちの娘の話を始めていた。目前にいたカップルはそれに無関心らしく、二人はそれぞれのスマートフォンをいじっていた。喧騒の中で子供の笑い声がよく響いていた。少し遠くからサルの雄たけびが微かに聞こえた。風に乗って動物たちの汗や糞の臭いが混じった獣臭がした。そう、私たちは動物園にいた。

 

「やっぱり、これは今ここで話すことじゃないよ」

 

「そうね、じゃあ、後で聞かせてもらおうかしら」

 

 真人は落ち込むように頷いた。そんな彼に申し訳なさを感じないわけがなかった。だから私は一度謝った。ごめんなさいって。すると彼は横に首を振って優しく許してくれた。

 

「別に晴菜ちゃんは悪くないよ。過去はどうしたって変えられないんだから。僕の中にあり続けて、僕を僕たらしめるんだから。仕方ないことさ」

 

 どこからともなく現れた雲が頭上の太陽を隠した。おかげで辺りは部屋のカーテンを閉めたみたいに薄暗くなった。見上げると、雲は遠吠えをするオオカミのような形をしていた。ちょうどオオカミの口に当たるところに太陽が飲みこまれ、しばらくしてお尻の方から顔を出した。雲のオオカミに丸飲みにされたにもかかわらず、太陽の輝きは相変わらずだった。私は太陽に手を翳しながらその輝きを薄目で確かめると、真人に言った。

 

「その過去があなたの中にあり続けているってことは、そこにしっかり意味があるという確かな証拠よね」

 

 今日も変わらず14時23分の東京を照らしている太陽に真人は目を細めながら微笑んでいた。きっと彼は私の言葉を理解していなかった。そして今度はそれを咀嚼し、理解しようともしていなかった。ここは動物園なのだ。だから私も微笑むしかなかった。仕方ないことよね、と心の中で皮肉をこぼして。

 

 

左利きは、世知辛い 9/23

ちょっとした演奏です。

よければ、聞いて行ってください。

 

 きつねは大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。そして誰に話すでもなく言葉をこぼし始めた。チンパンジーのオリバー先生直伝の人の言葉を。

 

「でも、なんでこの世にはこんなにもいろんな人がいるんだろう。オレは今までに様々な人間に会ってきた。誰一人として同じ顔、色、声、考え方を持ったやつはいなかった。神様はどうして同じ人をつくらないだろうか」

 

 沈黙。足音。思案。

 

「アダムとイヴが愛し合い、二人の間にアダムとイヴが生まれ、その二人の愛からまたアダムとイヴが生まれる。楽園での永久不変の円環的な愛」

 

 トムがそう言うと、きつねは大きく頷いていた。「そうですそうです。ほんとはそれでよかったんじゃないんですか? 二人も幸せで、神様も楽です」

 

 楽園での永久不変の円環的な愛。

 

 僕は心の中でそう繰り返した。苦しみも悲しみもない、安らぎと喜びに満ちた楽園。男女二人が愛し合い、二人の間に生まれる子孫も子孫同士で愛し合う。彼らは、初めは父母を見て見様見真似に手をつなぎ、抱き合う。父母はそれを微笑ましく見守る。子供たちは安穏の中でキスをする。交わり合う。どんなときも父母が近くでしっかりレクチャーする。不安なんて抱えることなく誰かと比べることなんてせず子供たちは着実に成長していく。愛し合う。本心から愛し合う。純度100%の愛を互いに見せ合う。完全な愛を惜しげもなく。「僕には君しかいないんだ」と息子。「私もあなた以外考えられない」と娘。二人は見つめ合い、愛を伝え合う。二人の間にできる息子や娘にもこんな恋をしてもらいたい、愛し合ってもらいたい、と彼らは考えるようになる。そう考えながら交わり合う。真剣に。誠実に。その先で、彼らの愛が新たな命を生む。そしてその命がまた愛し合う。その繰り返し。——それが許される場所こそ楽園。楽園での永久不変の円環的な愛。お気に入りの曲をいくつも入れたカセットテープのような世界。大好きな曲で始まり、大好きな曲で終わる。巻き戻して最初からスタート。まず聞こえるのは、変わらず大好きな曲。何一つ変わらない。完璧。別に悪い気はしない。どうしてだろう。僕は異常者なのだろうか。

 

 「僕には君しかいないんだ」と息子。「私もあなた以外考えられない」と娘。巻き戻す。「僕には君しかいないんだ」と息子。「私もあなた以外考えられない」と娘。また巻き戻す。「私もあなた以外考えられない」と娘。巻き戻す。「私もあなた以外考えられない」。リピート。私もあなた以外考えられない。うん。やっぱり悪くない。

 

 眼下できつねはうんざりしたように「人が増えすぎた現代じゃあ犯罪や不幸が相次いで、神様も大変だ」と言った。「誰がこんな未来を望んだんだろう」とも。隣でトムは「誰だろう」と考え込むように唸った。

 

 僕の頭の中には、どっしりと逞しい太い幹の樹木があった。木には緑が茂り、降り注ぐ木漏れ日がきらきら眩しい。男が光に手を翳しながら見上げるとそこには一匹のヘビ。全身が青黒く、目が切れ長でいかにも悪そうなヘビ。そのヘビは男が愛する女を唆す。「これを食べるといいさ。何もかもスッキリするさ」と果実を女に差し出す。果実はリンゴでもあったし、よく見るとミカンでもあった。角度を変えると、ぶどうにも見えたし、片目を閉じるとナシにも見えた。果実は一秒の間に様々なものに変化していた。サクランボにカボチャ、しいたけにネモフィラ。ときにカモノハシ。ヘビによる無数の可能性の提示。この段階で二人の円環的な愛には亀裂が生じ始める。楽園そのものが揺るぎ始める。食べちゃダメだ、と言いかけた男の首をヘビがすかさず絞める。彼の存在なんて全く気にすることなく女はその果実に手を伸ばす。目を細め、タチの悪い笑みを浮かべたヘビは陽光の中に溶けるようにして消える。女はすぐにそれを齧る。発作のように咳き込み始める。男は慌てて駆け寄る。倒れた彼女を抱きかかえる。彼女は目を閉じたまましばらくぐったりとしている。何を言っても、揺すっても反応はない。「僕には君にしかいないんだ」。彼は何度も眠ったままの彼女に向かって言う。しかし反応はない。いつまで経っても彼女は眠ったまま。その間にも楽園は崩壊に向かう。

 

 男は黙り込む。長く続く沈黙の中で彼の心に不安という感情が誕生する。不安が血管を駆け巡り、全身を蝕む。焦りが誕生し、身体の至るところから汗が分泌される。恐怖が蠢き、身体が小刻みに震える。そのような状況で、天使の微笑みのような朗らかな輝きを纏った希望も誕生する。彼はその希望に導かれ、静かに女に口づけをする。それで女が目覚め、「私もあなた以外考えられない」と言ってくれることを期待する。

 

 キスの後、女は目覚める。ゆっくりと妖艶に瞼を上げる。希望の風に髪は優雅に靡き、唇が横に平たくなる。笑みが男の期待を助長する。そして満を持して彼女が口を開く。

 

「ありがとう。でも、私には他に好きな人がいるの。ごめんなさい」

 

 女は起き上がると申し訳なさそうな表情だけ見せて男のもとから離れていった。スタスタと滑らかな歩調で。木漏れ日の中を通り抜けていく。そんな彼女の背中を見ていた男の心に様々な感情が生まれる。ビッグバンのように何千、何万もの感情が瞬時に生まれる。苦しみ。悲しみ。絶望。傲慢。後悔。羞恥。憤慨。あきらめ。憎悪。劣等感。……。

 

 しかし、それでも僕は君が好きだ。男は泣きながら女の齧りかけの果実を手に取り、齧る。咀嚼しながら「僕には君しかいないんだ」と呟く。涙が垂れ、よだれがだらしなくこぼれる。惨めったらしいことこの上ない。縋るように果実を齧り続ける。もう彼女も誰も助けにやってこないとわかっていても。男は言う。言い続ける。「僕には君しかいないんだ」と。禁断の果実が成る木の下で。

 

 君を待つ。待ち続ける。いつか君がやってきてくれることを期待して。

 

 そのようにして、現代に蔓延る未練がましい男のパイオニアが誕生する。そしてそんな男が、彼を許容できる寛大な心を持つ別の女性と出会い、恋をする。キスをする。交わり子供を生む。しかしもうそこには純粋な愛、完全な愛はない。あっても半分。良くても半分。子供は彼の半分の愛によってこの世に命を与えられる。その子供が不完全な愛を受容しながら成長し、別の女性と恋に落ちる。不完全な愛の下で交わり子供を生む。不完全な子供が生まれる。それが続く。うんざりするほど続く。不完全な愛は不完全な人間を形成し、不完全な愛を子孫に分け与える。不完全の愛を分け与えるときの音は崩壊していく楽園の叫びに似ている。不完全な愛がそこらじゅうを歩くようになり、楽園は苦しみもがく。それでも人は増える。楽園の悲痛な叫びなんて不完全な愛を与えられた子たちには一切聞こえない。だから楽園の崩壊に反比例するかのように人は増える。10から100、1000から10000とネズミ算式に増える。いつしか70億に達する。

 

 そしてその70億の一人として僕が生まれる。アダムの子孫としてここに僕がいる。彼の未練がましさをしっかりと受け継いで。

 

 どうだろう。君はきっとイヴの子孫なんだろうね。「別に好きな人ができたの。ごめんなさい」。君はそう言って僕を捨てたんだ。……そうだろ?

 

 長文、失礼しました。

左利きは、世知辛い 9/15

ここ最近は、ピアノの前に座っても、何も思いつかず、窓の外の景色を眺めるばかりでした。景色と言っても、見えるのは、道を挟んで向こう側の小さな雑居ビルですが。そのビルにはいくつかの会社が入っているらしく、私の部屋から覗ける窓からは、今までに、エプロンを着る女性の姿を何度も見ました。見えるのはどれも首から下で、おそらく、そこは更衣室か何かなのでしょう。どの女性もベテランらしく、エプロンを身につけるのに、10秒ともかかっていませんでした(興味本位で、つい測ってしまいました)。また、30分に一回は、その部屋に、エプロンを着に女性がやってきました。しかも、いつも一人だけで。

 

その部屋の中で、毎日、何が行われているのかは、定かではありませんが、そのエプロンが、赤と緑と黒の三色展開であるということは、確かでした。そして、そこにある法則も、私は、理解しちゃいました。

 

その法則とは、以下のようなものでした。

赤のエプロンを着た女性の後に、そこにやってきた女性は、赤、あるいは黒のエプロンを着て、緑のエプロンを着た女性の後に、そこにやってきた女性は、赤のエプロンを着ます。そして、黒のエプロンを着た女性の後に、そこにやってきた女性は、緑、あるいは、黒のエプロンを着ます。

だから、何? って話ですね。

ただ、休日の日に、窓からそのエプロンの色あてをするのが、私のささやかな楽しみってことです。最初の一人を見てから、一気に3時間分予想して、紙にメモで書いておき、30分ごと答えわせてします。赤、黒、黒、緑、赤、赤、赤、……みたいに。全部当たると、とても気持ちいい。はい、それだけです。

 

窓の外の、となりのビルの窓の中は、だいたいそんな感じでした。赤か緑か、もしくは黒のエプロンを着る女性、あるいは、室内の電灯を白く反射するリノリウムの輝きだけでした。

 

バカみたいなことばかり考えるのではなくて、少し気分を変えてみようと、鍵盤を叩いてみても、音なんてちっとも鳴りませんでした。あったのは、恐ろしいほど重厚な沈黙だけでした。

 

そこで、私は、学びました。重厚な沈黙は、ヴー、ヴー、という音がします。ガッタガッタガッタ、とも響きます。グオーン、とも。少しして、シーン、という聞き馴染みのある沈黙がやってきます。それから、となりの部屋の、ベランダに続く窓が開く音がして、バッサ、バッサ、と服を広げる音がします。それを聞いて、私は、私を侵食し始めていた孤独感から、間一髪解放されるのです。

 

そのおかげで、もう一度ピアノへ向かおう、と思えるのです。

 

そもそも、これがピアノじゃないこと、ピアノだとしてもその機能を一切果たしていないこと、私は、それを理解しながらも、これに向かっています。どうしてでしょうか。

 

理不尽? いや、不可思議? いや、大いなる目的がそこにある?

 

はあ。

 

また、わけのわからぬことを書いてしまった。

 

今夜は、集中力もなくて、食欲もわかないから、トマトジュースで、おしまいかな。

 

、といった風にここまで無気力的な私は、左利きです。

左利きってこんなんですか? それとも私だけですか?

左利きは、世知辛い 9/7

きっと、いい音は出せない。いい曲は弾けない。でも、なぜだか、気づけば、いつも私はピアノの間にいる。「ド」なのかわからないキーに、指を置いて、押すか押さぬか、躊躇している。

 

だって、怖いもの。これが「ド」じゃなかったら、て思うと、とっても怖い。

 

それでも、私は、キーから指を離すことができない。いつも、やっぱり、これが「ド」のキーかもしれない、と思っている。私は、私が思っている以上に、コレの扱い方を理解しているのかもしれないと思う。一方で、それをうまく言葉にできないことに、矛盾を感じないこともない。

 

これは「ド」なの? それとも「ド」じゃないの? いや、「ド」かもしれない。

もしそうだとしたら、押さなくちゃ。でも、押せるかしら。本当にこれ「ド」かしら。

……「ド」よね。私は、「ド」だと思う。大丈夫? 大丈夫。きっと、大丈夫。

そんな風に、常に私は、私に何かしら期待している。

 

ちょっと、少しの、些細な期待。

 

それはミジンコのような、とっても小さくて、非常に無力なものなのに、それは、いつも、最後には大失敗を引き起こす。

 

きっと、これまでに、多くの恋人に捨てられたのも(実際にそうかもしれないし、あるいは私がそう思い込んでいるだけかもしれない)、それが原因かもしれない。

 

そう思えば、思うほど、余計キーを押すのが、億劫になる。ため息が出る。

 

過去の情事は、語るには、まだ恥ずかしいものばかりだから、ここでは、熱々のコーヒーと一緒に身体の奥に流し込む。しっかり冷ましてから、飲むの。だって、あのときの温度のままじゃあ、私、胃もたれしちゃうもの。

 

もうそろそろトーストが焼ける。……あ、焼けた音。でも、まだ熱いから、このまま待つの。

 

それに、外は雨だからカーテンは開けないの。人には、見なくていいものもあるし、知らなくていいこともあるの。

 

とにかく、今日も、朝が来た。それだけで、私はじゅうぶん。

 

そろそろ、いい温度かしら。…………アチッ…………。

 

、といった風にここまで猫舌な私は、左利きです。

左利きってこんなんですか? それとも私だけですか?

左利きは、世知辛い 1

ピアノを前にして、私はしばらく考えました。缶ビールは2本空にして、柿ピーは3袋開けてティッシュペーパーに広げて食べていきました。今ではピーナッツだけきれいさっぱりありません。私は、残った柿ピーの柿の方を一粒ずつ処理しながら考えます。私がいつ自身が左利きであることに違和感を覚え始めたのかを。

やっぱり、ピーナッツがほしい。4袋目開けちゃおうかしら(もう開けている)。

 

はじめて左利きであることに気づいた、いや、自身が左利きであることを強く認識したのは、小学生のころだったと思います。決められた部屋の中に決められた人数の生徒を入れて、月から金まで決まった顔を見て過ごす、あの小学校です。

同じ場所で、鉛筆を握って授業を受けていれば、周りとの違いに気づくのは当然だと思われますが、当時の私はそこに特に気にすることはありませんでした。つまり、周りと比べて自身がみんなと違うと強烈に感じることがなったのです。幸いなことに私が左利きであることで、いじめが起こることもなく、何不自由なく生活をしていました。

ただ、小学3年生になると、私の中で大きな事件が起こります。

 

書写の授業のスタートです。

 

私は3年生に上がったころに、三者面談で担任の先生にそのことで「○○さんは左利きだけど、書写の時は右で書くようにがんばりましょうね」と言われたのを、今でも憶えています。そして実際に授業がはじまると、私は右で筆を持ち、手本に倣って字を書いていきました。

当然、うまく書けるわけがない。

筆を握る右手にはうまく力が伝わらず、コントロールもままならないのです。常に筆先が震え、半紙に下りた後もぷるぷると手が震えました。そして完成する字は、見ていられないほどみっともないものばかりでした。

それが嫌で嫌で、私は一度左手に筆を持って字を書いてみました。しかしそれは私を、字を書く以前の問題に直面させることになっただけでした。左手で筆を持ち、何も考えずに半紙に落とすと、そこに滲む筆の向きが手本とまったく違うものになりました。それから筆を横に流そうとしても、変に詰まってしまい、半紙がぼろぼろになりました。

左利きには習字はできない。

当時の私は無残な結果を残した半紙を眼下に置いてそう思いました。

それから私はおとなしく右手に筆を握り、書写の時間を過ごしていきました。それはまさに、自身が左利きであることがいかに悪いこと、間違っていることで、いかに劣っているものか、見せつけられ、押さえつけられているような感覚でした。みんなに自分が左利きであるとばれてはいけない、そんな感じもしていました。だから私は周りの子たちに馴染み、身を隠すように、右手に筆を持っていました。

ストレスがたまるのなんの。

まあ、義務教育はとっくにおわっているので、今はなんてことないんですけどね。

ただ、書写の時間は当時の私にとって地獄とはまでは行きませんが、良い気持ちになるような時間ではなかったです(どの授業も良い気持ちになんてなったことありませんが笑)。

 

ほら、気づけば4袋目の柿ピーも、ピーナッツだけなくなってる。

5袋目? と私は考えますが、考えてしまったときにはもう遅いのです。開いてます。この流れでビールも……開きます。

 

、といった風に学生時代、書写が大嫌いだった私は、左利きです。

左利きってこんなんですか? それとも私だけですか?