左利きは、書きずらい 9/30

私は、ピアノの前に腰掛け、目を閉じ、沈黙に耳を傾ける。部屋の片隅に小さな穴が開くイメージをする。そこには、私が住む世界とはまた違う、別の世界の景色がある。この世界と同じような時間の流れがあり、この世界と同じようなポップスが至るところで聞こえる。東京タワーもあるし、満月もある。しかし、それらは、完全にこちらの世界のものと同じというわけではない。そして、もちろん、そこには私としてではない、私がいる。私は、その私を、その穴の中からじっと観察する。その私に気づかれないようにそっと。

 

これが最近の、このピアノの、演奏方法。少し複雑で、とても想像的。また、それは少し窮屈で、とても無意義的。有意義にするには、やはり音が必要不可欠。このピアノじゃあ、それは難しい。

 

それでは、演奏スタート。

 

「結婚しよう」

 

 私がまだ鮮明に顔を覚えている男性から言われた言葉だった。一番最後に付き合った男性だったため、当然だろう。彼は山口真人。都内でフリーランスのエンジニアをしていた。私は機械のことや横文字が苦手だったため、彼から仕事の話を訊くことは進んでしなかった。しかし彼から自慢のように仕事の話が出てくるときはなんとか笑って誤魔化していた。友達に誘われた合コンで初めて会ったときもそうだった。彼はハイボールの入ったジョッキを揺らしながら言った。

 

「この前も会社のウェブサイトを作ってほしいっていうお客さんがきて僕はこうしたほうがいいと説明したんだけど、お客さんの方が納得してくれなくて、しつこいなって嫌な顔されたんだ。だから僕は表面上ではお客さんの要望をしっかりと汲み取った。そしてその裏で僕は僕がいいと思うやつとお客さんの要望通りの二つを作ったんだ。頼まれたこと以上のことをしたってわけ。それで完成後、その二つを見せたら、結局僕がいいと思っていた方が採用されてね。初めから君の考えに従うべきだったって、お客さんも驚いてたよ。僕も驚いたけど」

 

 真人がその話に対して私たちに何を求めていたのかわからなかったが、私と隣にいた友人は一度アイコンタクトを取ってから、大変ねえとか、すごいじゃない、と言って笑って見せた。そうすると彼も嬉しそうに笑った。話はあんまりだったが、くしゃっと笑うその顔は私に好感を与えた。またハイボールを飲む際、満足そうな表情を一度フラットにするその一瞬に私は内に隠しているであろう彼の本当の感情を覗きたくなった。簡潔に言えば、私は彼に興味を持った。仕事の話は恐ろしくつまらないが、そのおかげで私は彼を、彼自身を知りたくなった。だから私は彼と連絡先を交換することにした。何回か連絡を重ね、デートをした。

 

 二回目のデートで上野動物園に二人で行った。土曜日だったということと秋晴れの心地よい昼下がりだったため、上野駅から人が多く混雑していた。私は人が多いところが得意ではなく、エントランスで犇くたくさんの黒い頭を見ていたら気分が少し悪くなった。しゃがみ込んだり、倒れこんだりするほどではなかったが、確実に口数は減っていた。表情も暗かったに違いなかった。

 

 そんな私に気を遣ったのか、園内に入ってすぐに真人がせっかくだからパンダを見たいとくしゃっと笑って言った。しかしその後に顔を歪めて「でも、結構並ぶかも」とパンダを見るためにできた行列を見つけて言った。私はあまり園内を歩き回りたい気分ではなかったため、行列に並ぶことを拒むことはしなかった。むしろ並びたいとも思った。それで少し休憩できれば、と私は彼とパンダを見るための行列に並んだ。

 

 そこでも真人は仕事の話をしようとした。私は頭を抱えて苦しそうに唸り、彼の口を制した。無論彼は心配そうに「晴菜ちゃん、大丈夫?」と膝に手を置いて顔を覗いてきた。私は横に小さく首を振った。

 

「この際だから正直に言うわ。私、機械とか横文字とか得意じゃないのね、だからあなたの仕事の話聞くのあんまり好きじゃないの」

 

「おお、……正直に言うね」

 

 真人は苦笑いだった。それからひとこと「ごめんね」と謝罪があり、じゃあどうしようかな、と彼は頭を掻きながら話を探し始めた。しかし彼はなかなか口を開かなかった。話が見つからないのか、正直にものを言った私に対して気まずさを覚えているのか、真相は謎だったが、おかげで私たちの間には沈黙が起こった。

 

 私たちが口を閉ざしても周りには多くのお客さんがいた。園内を歩くお客さんには子連れが多かった。売店のライオンのぬいぐるみをねだる子供の声、ベビーカーの車輪が転がる音、我が子の名前を呼び窘める母の声などが入り乱れた喧騒中から突発的に飛び出してきてはすぐに喧騒の中に溶けていった。私は飛び出してきた音の方を一瞥しては隣の真人の顔を見た。口をへの字に曲げた彼は未だなお思案中のようだった。

 

 私たちのすぐ後ろには50代あたりの夫婦が並んでいた。二人とも動きやすそうなマウンテンパーカーを羽織り、シャカシャカのズボンを履いていた。奥さんは薄茶色のキャップをかぶっていた。旦那さんは黒縁の眼鏡をかけていた。昨晩の夕食について話している二人の会話はほのぼのとしており、今日の天気にぴったりだった。

 

 目の前には20代くらいの若い男女がいた。茶髪の彼は全身を黒い服で包んでいた。髪の長い彼女は短いスカートを履いていた。つながれた手は小さく前後に揺れていた。その揺れと、時折見せ合う微笑みとが現在の二人の幸せを物語っていた。

 

 私は無意識に隣に立つ真人との距離を測っていた。手の届く距離にいるのにとても遠くにいるような感じ。私たちの間に澱む沈黙がよりその感覚を顕著にさせた。でも、なんだかそれもそれで悪い気はしなかった。まさにまだ関係の浅い腹の探り合いのデートのようで。また恋の始まりを予感させるようで。この感じはあとになってから味わうことはできない。付き合ってからでは、手をギュッとつなぎ始めてからでは決して感じることはできない。だから今のうちにしっかり味わっておかなくちゃ、と私は思った。

 

 列が少しずつ前に進む中、目の前のカップルが今話題のドラマの話をし始めた。真人はそれを耳にするとしめた、という表情を浮かべ私の方を見た。そして急に吹いた突風に目を細めた。足元を枯葉がザーッと滑っていった。周りには被っていた帽子を飛ばす者もいた。それでも風が止むと彼は再び希望に満ちた表情を見せた。風で乾燥した瞳には潤いが滲み、陽光に煌めいていた。おかげで私に対してときめいているようにも見えた。

 

「晴菜ちゃん、そよ風に歌う恋っていうドラマ見てる?」

 

「見てないって言ったら?」

 

「え、……どうしよう、かな」

 

 真人は私から視線を逸らすと空を見上げ、再び頭を掻いた。そんな彼に私はため息をこぼした。うんざりという気持ちもないわけではなかったが、そこには未来に対する期待もあった。彼は私のことをしっかり考えてくれている。さっきまでの沈黙の中でそうはっきり感じ取ることができていたのだ。

 

「まあ、嘘よ。見てるわ。ちゃんと毎週録画してる」

 

「ちょっと、どうしてそんな意地悪するのさ」

 

 真人はおどけるようにして言った。彼は恥ずかしそうにして風で乱れていた自身の前髪をいじっていた。私はふふふと笑っていた。しかしすぐに真面目な表情に戻すと彼のはにかみもゆっくりと苦笑に変化していっているように見えた。それは太陽が傾き、足から伸びる影が徐々に長くなるように些細なことでありながらも、視点を変え、そこに決して戻ることのない時間の経過を想うと重大なこととしても捉えることができた。私はタイミングを誤らないように気をつけた。一度タイミングを間違えたら命取り。躊躇はしていられない。

 

「私、あなたのことを知りたい」

 

 真人は私の言葉を一つ一つ咀嚼し、飲み込むようにして理解していった。その証拠として彼の口から次の言葉が出るまでに二十秒近くかかった。

 

「僕のこと?」

 

 不安そうに首を傾げる真人に私は頷いた。顎を引いて上目遣いで、恥ずかしそうに。そんなことレディーに言わせないでよ、と言わんばかりに。

 

そんな私を見ながら真人は困った表情をした。眉根を寄せて次のセリフを考えているようだった。私は彼に考えるひまを与えてはならない、と思っていた。彼の中で私のために校正されたセリフではなく、彼本来の言葉で彼自身のことを伝えてほしいと考えていた。だからなおさら意地悪をした。

 

「ねえ、話してちょうだい」

 

 脇腹を小突くようにして催促すると真人は参ったな、と今度は襟足をいじり出した。そして少し間を置いてから「僕は僕の何について話せばいいの?」と訊いてきた。私はひとこと「これまでよ」と返した。彼はまたそれをしっかり噛むようにして聞き入れた。彼はこれまでがどこからどこまでのことを示しているのか、深く考え込んでいるようだった。

 

「でも、僕のこれまで? のことを話して一体何になるんだい?」

 

「あなたの口から出る機械や横文字の話を聴くよりよっぽど有意義な時間を過ごせる」

 

「随分なことを言うじゃないか。耳が痛いよ」

 

 真人は苦笑いだった。

 

「ごめんね。でもね、現在も重要だけど、これまでのことも大切なのよ。これまであなたが体験してきた過去たちはあなたの中で養分となって今のあなたを形作っているんだから。わかる?」

 

「ああ、うん。なんとなくはわかるよ。過去があるから今がある」

 

 でも、と真人はまたすぐに何かを否定しにかかった。私はそれをなんとかして抑えようと努めた。「真人さんはどんな小学生だったの?」。そう訊くと彼はでも、に続く言葉を飲みこみ、一度鼻で深く呼吸をした。肩が上がって下がった。まさにうんざりしているようだった。そこに未来への期待はどのくらい含まれているのだろうか、と私は彼の吐いた息の含有物について想像した。

 

「どうしてそんなに僕のことを知りたいのさ」

 

「……そんなことレディーに言わせるつもりなの?」

 

 今度はそう口にしてみた。すると真人は再び鼻から大きく息を吸い、吐いた。吹く風に前髪を揺らし、それから三回瞬きをした。それが決心の合図だったらしく、彼は口を開いた。

 

「小学生の頃、僕はいじめられていた。それもとても酷く」

 

 そう話始めるとすぐ横を三人の子供がはしゃぎながら駆けて行った。男の子二人に女の子一人。すぐあとをそれぞれの保護者が小走りで通り過ぎていった。「ちょっとはぐれちゃうでしょう!」とその言葉は叱っているようでもあったが、保護者の間には開放的な笑みが交わされていた。私たちの視線はそれに強く引っ張られた。小さくなって人ごみに消えていく親子の背中をしばらく漫然と眺めていた。後ろに並んでいた夫婦もそれを目で追っており、懐かしそうに自分たちの娘の話を始めていた。目前にいたカップルはそれに無関心らしく、二人はそれぞれのスマートフォンをいじっていた。喧騒の中で子供の笑い声がよく響いていた。少し遠くからサルの雄たけびが微かに聞こえた。風に乗って動物たちの汗や糞の臭いが混じった獣臭がした。そう、私たちは動物園にいた。

 

「やっぱり、これは今ここで話すことじゃないよ」

 

「そうね、じゃあ、後で聞かせてもらおうかしら」

 

 真人は落ち込むように頷いた。そんな彼に申し訳なさを感じないわけがなかった。だから私は一度謝った。ごめんなさいって。すると彼は横に首を振って優しく許してくれた。

 

「別に晴菜ちゃんは悪くないよ。過去はどうしたって変えられないんだから。僕の中にあり続けて、僕を僕たらしめるんだから。仕方ないことさ」

 

 どこからともなく現れた雲が頭上の太陽を隠した。おかげで辺りは部屋のカーテンを閉めたみたいに薄暗くなった。見上げると、雲は遠吠えをするオオカミのような形をしていた。ちょうどオオカミの口に当たるところに太陽が飲みこまれ、しばらくしてお尻の方から顔を出した。雲のオオカミに丸飲みにされたにもかかわらず、太陽の輝きは相変わらずだった。私は太陽に手を翳しながらその輝きを薄目で確かめると、真人に言った。

 

「その過去があなたの中にあり続けているってことは、そこにしっかり意味があるという確かな証拠よね」

 

 今日も変わらず14時23分の東京を照らしている太陽に真人は目を細めながら微笑んでいた。きっと彼は私の言葉を理解していなかった。そして今度はそれを咀嚼し、理解しようともしていなかった。ここは動物園なのだ。だから私も微笑むしかなかった。仕方ないことよね、と心の中で皮肉をこぼして。